思い出
新札発行記念シンポジウムに参加
2023-12-11
先日津田塾大学創立120周年記念事業として開催された、新札発行記念シンポジウムに参加することが出来ました。いよいよ来年に迫る新札発行を記念したイベントで、以下の3つの興味深いプログラムを聴くことが出来ました。
1.基調講演「渋沢栄一の遺したもの」
三村明夫(東京商工会議所名誉会頭)
2.講演「津田梅子の生き方」
飯野正子(元津田塾大学学長)
3.鼎談「明治のパイオニアたちが力を注いだ女子高等教育 – 激動の時代を生きた3人の想いとは」
島袋香子(北里大学学長)、井上潤(渋沢史料館顧問)、高橋裕子(津田塾大学学長)
元々渋沢栄一と津田梅子には興味があったのですが、その二人についての滅多に聴くことのできないエピソードなどが満載で、あっという間に3時間が過ぎるほどに満足行く内容でした。
今回はこのプログラム内容を振り返り、その時代に思いを馳せる中で、現在を生きるものとして心にグッと来るものがありましたので、それを書き留めておきたいと思います。
渋沢栄一の残したもの
渋沢栄一は「日本資本主義の父」と呼ばれていますが、その驚くべき行動力には目を見張るものがあります。江戸末期の1840年に生まれ、明治維新を経て昭和初期の1931年に亡くなるまでに500以上の会社を起ち上げています。さらに驚くべきは、それらのうちの296社が未だに残っており、しかも現みずほ銀行や東京ガス、キリンビールなどと、現在でも日本を代表する大企業が含まれているのです。そのエピソードだけでも、渋沢栄一がいかに偉大な経営者であり、ビジョンリーダーでもあったかがわかると思います。着眼点が鋭く、「何を変えて何を変えざるべきか」をクリアに理解しているからこそ躊躇なくどんどん行動に移して結果を出せたのだろうと思いました。「日本を良くしたい」と一途に思うこれほど凄いリーダーが、わずか120年余り前の日本に存在していたことは驚きです。渋沢栄一と同じ時代に生き、ダイナミックに生きることが出来たらさぞ楽しかっただろうなと思ってしまいました(笑)しかしふと我に返って、その頃の女性はそんな自由に生きるのはむずかしかったに違いないとも思ってしまいました。
基調講演をされた東京商工会議所名誉会頭の三村さんが最後に「経営者よ、頑張れ!」と喝を入れたのですが、それがとても印象に残りました。
津田梅子の生き方
今回私にとって一番の目玉は「津田梅子の生き方」という講演でした。同じ女性としての津田梅子の生き方には大変興味があり、渋沢栄一と同じ時代でどのように女性の地位向上に向けて活動をしたのかを知りたかったのです。
1864年に生まれた梅子は、1871年、6歳の時に岩倉使節団に随行するかたちで渡米し、それからアメリカでの留学生活を開始します。留学のきっかけは、父親が「教育は母親の資質によって定まる」という考えを持っていたからのようです。
11年間の留学生活の後、1882年に日本に帰国をするのですが、その頃には日本語を忘れてしまっており、中身が全くのアメリカ人が着物を着ていると言われるような差別もあり、色々と苦労をしたようでした。
帰国から7年後、梅子は再びアメリカの大学に3年間留学し、帰国してからは常に女性の地位や知的レベルの向上を目指す活動を続け、1900年に女子英学塾(現津田塾大学)を設立しました。梅子の生涯は、常に次の世代の事を思い続ける行動に満ちていました。
シンポジウムの休憩時間に、キャンパス内の津田梅子墓所に行き、手を合わせながら「そのバイタリティとその行動力はどのようにして生まれたのでしょうか」と問いかけました。あの時代に梅子の様に高い意識を持った人たちが頑張って残したものが今の私達に繋がっているのだと思うと、どこまで出来るかわかりませんが、私も次の世代により良いバトンを繋げて行くためにお役に立てることがしたいとしみじみ思いました。
まとめ
講演会というものにはここ何年も行っていなかったのですが、今回日本商工会議所からのお知らせにピンと来て、直ぐ申し込みをしました。津田塾大学は九州出身の親友2人の母校でもあり、一度キャンパス内に入って色々な想いを感じてみたいと思っていた場所でもありました。来年7月頃に新札が発行され手にするごとに想い出すに違いないこの感動をいつまでも忘れずに、そして更に新たな感動を求めて行きたいと思いました。