日常

エルヴィス – 私の推しの原点

2022-07-11

エルヴィス – 私の推しの原点

1年にせいぜい1回位しか映画を観ない私ですが、ここ最近立て続けに2本の映画を観ました。1本は、1作目が懐かしくなり観に行った「トップガン マーヴェリック」です。そしてもう1本が先週日本で公開されたばかりの「エルヴィス」です。特に2本目の「エルヴィス」は公開されるやいなや、居ても立ってもいられず直ぐ観に行きました。何故ってそれはエルヴィス・プレスリーが私の“推し”になっていなければ、今の私は存在しないと言い切ってもいいくらい、エルヴィスは私の人生に影響/彩りを与えてくれた唯一無二の存在だったからです。今回は「エルヴィス」公開に寄せて、出会いから今に至るまでの思い出をエルヴィスの42年の生涯と重ね合わせながら、ブログに書き留めて置きたいと思います。

エルヴィスとの出会い

かなり昔のことになりますので、ロカビリー歌手のエルヴィスと出会った瞬間の記憶はあまり定かではないのですが、私がエルヴィスの存在を知ったのは中学生の頃だったと思います。きっと外国映画が好きだった当時高校生の兄の影響だったのではないかと思います。ですので、当初私はロカビリー歌手のエルヴィスと言うよりも、 ‘映画スター’としてのエルヴィスのファンになりました。中学生の私は「ブルーハワイ」を観に、一人で折尾から市電に乗って八幡か小倉どちらかの映画館に行った記憶があります。当時の常識からすれば女の子が一人で隣町の映画館へ行くなんてとてもありえないのですが、私はその頃から「思い立ったが吉日」で誰が何と言おうと直ぐ行動を起こす、おてんば娘だったのです(笑)

エルヴィスは映画デビューをする前の6年間(入隊した2年間を含む)に、白人のソウル・ミュージックであるカントリーミュージックのみならず、教会で黒人が歌っていたゴスペルやブルースも歌える魅力的な歌声と、今では普通ですがその頃はあり得ないエルヴィス独特の腰の動かし方で絶大な人気を博していました。その腰の動きはElvis – the pelvis(エルヴィス骨盤)と言われ、テレビでは腰から下の撮影が禁止になったという逸話もあるくらいです。また、黒人差別や公民権運動が激しかった時代に、黒人の音楽であるゴスペルやブルースを南部の貧しい家庭で育った白人青年が歌っていたことも相まって、若者から熱狂的な支持を受ける反面、大人からは大きな反感を買っていました。

そんなエルヴィスの虜になった私は、小さいころからお琴を習っていたため、「もしエルヴィスに会えたら、目の前でお琴を弾いて日本の伝統文化であるお琴の説明をしたい。そのためにも、そうだ英語を勉強しよう」とひらめき決心したのです。今思うとここで私の人生が決まったようなものです。あの時エルヴィスの映画を観に行ったから、そして私の単純かつ純粋な思いがあったからこそ今の自分があると確信しています。

そして1970年代

1973年114日の‘Elvis: Aloha from Hawaii’ は衛星生中継で全世界30カ国以上15億人が観たと言われています。日本では19:30からのゴールデンタイムに放送され視聴率37.8%の驚異的な数字だったそうです。当時の私はと言えば、結婚1年目の新婚だったにも関わらず、放送が始まる前からテレビの前に陣取り、主人のことはそっちのけで、一瞬たりともエルヴィスの動きを見逃すまいと正座で座り微動だにせず‘かぶり付き’で観ました。そのすべての情景にとても驚いたことを、主人は今でも鮮明におぼえているそうです。映画でしか観たことがないエルヴィスが、ライブステージでは生き生きとして自然体の自分を出していて、ロックのみならずブルースやバラードで見せるその歌唱力、声のトーン、ファンに微笑むまなざし、歩き方、そのすべてが私を虜にしました。離婚する直前だったエルヴィスはその日、自分の心を反映した別れをテーマにした歌を多く歌い、そのことを知っている私はエルヴィスの事が可哀そうで胸が締め付けられる思いでした。

ヒューストンでの想い出

そして19768月に主人の転勤で私も会社を辞めてヒューストンに行くことなりました。さあエルヴィスのいるメンフィスに近いテキサス州ヒューストンだ、ライブに必ず行くのだと強い気持ちで空港に降り立ったのを今でも覚えています。エルヴィスは前年にヒューストンドームでライブを行ったようで、それならばまたそのうち来てくれるだろうと期待していました。

しかし渡米後にテレビで初めてエルヴィスのツアーのニュースを見た時、エルヴィスのすっかり太って変わり果てた姿を見て唖然としてしまいました。こよなく愛していた妻のプリシラがエルヴィスから離れて行ってしまった苦悩と戦い、そのストレスに蝕まれながらも、それでもファンに自分の歌を届けたいと思う気持ちでツアーを続けて来たのだなぁと思うと、エルヴィスが可哀そうで心が張り裂けそうでした。また非常に身勝手なファン心理ではありましたが、そんな病的に太った体をさらさないで欲しいとも思いました。

そして1977816日、ニュースでエルヴィスが心臓麻痺で亡くなったことを知りました。アメリカに来てライブがリアルで観られると期待していたのにこんな結末になってしまい、来るのが遅すぎたとかなりのショックでした。もう二度と会うことが出来ないと思うと涙が止まらず毎日泣いて過ごしました。そして新聞記事や雑誌の特集を切り抜き、テレビのお葬式のニュースにくぎ付けになり、関連本を買いあさり、そしてテレビの特集でエルヴィスが33歳で最も輝いていた頃の1968年、何物にもとらわれない自分の意思で選曲し歌った‘Elvis TV Special’を涙ながらに何度も観たことを覚えています。

その後エルヴィスが1969年から1971年までラスベガスのインターナショナルホテルで行った‘Elvis on Stage’の現場や、エルヴィスが‘アカプルコの海’と言う映画を撮影したであろうアカプルコのレストランと海(実はエルヴィスは飛行機が嫌いなので撮影はハリウッドで行われ、現地には来ていないと知りショック)に主人と旅行したことも、私の忘れられない思い出の一つになりました。

まとめ

エルヴィスは天賦の才を持ち合わせた、アメリカの良き時代の礼儀正しい信心深いディ―プサウスと言われる南部出身の若者でした。そんな若者がロックの王様としていつまでも人々から忘れられず、後世に大きな影響を与え、今でも年間50億円の印税が入るほどの結果を残していると言うのは、アメリカ人が大好きなサクセスストーリーです。私にとってのエルヴィスはと言えば、英語を勉強するきっかけになり、自分なりに外資系企業一筋に最後までやり切ることが出来た要因の大部分を締めている存在です。エルヴィスの存在が原点にあったからこそ、今の私が存在しているのだと思っています。以前のブログで「私の人生を彩る“推し”」を書きましたが、エルヴィスは正しく私の人生を彩ってくれました。