日常
母とのお別れ
2022-12-05
遂にその日がやって来ました。今年の5月に両親への想い – 認知症・介護・ホームでの生活というブログをアップしましたが、その6か月後の2022年11月26日に、母は98歳でその生涯を終えました。大往生でした。
見取り介護に切り替えて約1年。ホームで最高齢だった母は、コロナ禍にもかかわらず風邪すらひかず、歯も“80歳で20本”どころかほぼすべての歯が残っていました。そのおかげで食べることを楽しみに出来たのが、母の長生きの秘訣だったのではないかと思います。そのような母を偲んで母の強みや人となりを色々と思い出してみたいと思います。
母の活発性
母は山口県の瀬戸内海にある周防大島で、みかん農家を営む両親の元に六人兄弟の三女として生まれました。師範学校(現在の山口大学)を卒業して、地元の小学校の教師として働いていた頃に父とお見合いで結婚しました。アメリカ西海岸の綿摘みの仕事で出稼ぎ労働者として稼いだお金を元手に始めたみかん農家で成功した祖父によって、アメリカ的な自由な精神や考え方の中で伸び伸びと育てられた母は、その頃の周防大島で女性として初めて自転車に乗ったことを自慢げに話していました。
サラリーマンだった父と結婚した後は、祖父母(母にとって舅姑)と同居しながら、生活をより良くするために証券会社の事務や化粧品の販売員として働いていました。その頃の女性としては非常に珍しい、家族のためにとてもエネルギッシュに働く母親でした。働きながら子育てをするという、2022年という現代においてですら大変なその状況を可能にしたのは、祖父母(母にとって舅姑)が幼い私たちを見てくれていたからに違いありません。祖父母は嫁いびりなど全くせず、むしろ自由闊達な嫁の指示に従う優しい人達でした。
そして母は、自分が父(私にとって祖父)から受けた子供時代の時のように、子供にはとにかく学問を学ばせたいというとても強い意思を持っていました。特に兄に対してその思いは一層強かったようで、兄を学芸大学付属中学に入れるために、母は我々家族を置いて付属中学の学校区内で兄と二人でアパート暮らしをし、家庭教師を付けさせるほどでした。その間、小学生の私と妹の面倒は祖父母が見ており、父は週に1回母と兄のところに通うといった生活だったことを記憶しています。
母の学習欲
母の学習意欲は並外れていました。生け花は池坊の免許皆伝、書道は師範、お茶も師範で自宅の1室を茶室に仕立てるほどの力の入れようでした。生徒さんにはお正月に懐石料理を自分で作り、お茶のお手前を披露するなど、自分の興味のあることに対して人一倍努力し学習する人でした。ホームに両親揃って入居した時に「祝国立十周年記念」という横断幕を依頼されて筆を揮ったり、いつも床の間に季節のお花を生け、庭には常に牡丹など好きなお花を咲かせていました。常に日本の古くからの伝統や作法を大切にし、立ち居振る舞いや言葉遣い等品格を重んじる人でした。
母の信念
母は今で言う「ジェンダー平等」を家族の中で実践した人でした。それは私の生き方にも大きく影響しているところです。いわゆる昭和の男だった父に長年かけて家事が出来るように教え込み、男だからとか女だからではなく、人間としてどうあるべきなのかを常に考えて日々を過ごしていました。家事は無条件で女性がやるものではなく、出来る人がやるものという母の考え方は父にもしっかり浸透し、二人でホームに入る直前まで父が認知症の母の代わりに家事をしていました。先に書きましたが、母が仕事と子育てを両立させることが出来たのは、祖父母と父の協力があってのことだったのは間違いないですが、それ以前に「ジェンダー平等」という母の信念があったからこそ実現できたことだと思います。
まとめ
特にホームに二人で入ってからの9年間は私にとってかけがえのない時間でした。父はホームに入居して2年後に95歳で亡くなりましたが、両親が長生きしてくれたからこそ親孝行が出来ると考え、両親との時間を大切にするために、毎週ホームに通い続けました。
コロナ禍でお葬式の在り方も変わって家族葬(1日葬)が主流になり、家族だけでゆったりとした最後の時間を過ごすことが出来ました。実際に終わってみると、私も自分が母のところに毎週通い続けぬいたという安堵の気持ちでいっぱいになり、心が清められた感じで母とお別れすることが出来ました。