日常

大好きなクルマの運転と思い出

2022-11-07

大好きなクルマの運転と思い出

色々と書き留めておきたいものの中にクルマの運転があります。以前のブログに書いたエルヴィス 私の推しの原点と同じように、クルマを運転することは、ある意味私の人生を切り開いて来た原点の一つでもあったような気がします。スピードを出すことに楽しみを見出していた時期もありましたが、こうして今振り返ることが出来るのは、これまで事故に遭遇することもなく、自分なりに安全運転に徹していたためだと思っています。その頃の時代背景と重ね合わせながら振り返ってみたいと思います。

初めて購入した車 – 日産サニー1000

短大を卒業し外資系に外国人秘書として入社した1970年ころは、まだまだ女性は就職しても結婚と同時に家庭に入るのが普通でした。しかし私は向学心に燃え、新しい通信技術(テレックス)を速やかに覚え、どんどん視野を広げて行きたいと思っていました。車の購入を決意したのもその思いと無関係ではありません。「車に乗ればきっと今以上に世界が広がるに違いない」と思ったのです。そこで、まずは運転免許を取得することにしました。その頃は車の免許を取る女性はほぼいなかったため、教習所では物珍しいものを見るような視線を感じたものです。

ほどなく免許を取り、ようやく車を購入することに。その頃は月給33,000円で実家住まいだったので、車が手に入ったら毎月の給料をどのように使えるかを頭で試算してみました。1万円は両親に渡し、1万円は車のローンの返済、残りの1万円はガソリン代と決め、日産で初めてのクーペ「サニークーペ1000」の中古を28万円で購入しました。淡い卵色のハッチバックタイプでしたが、手に入ったことが嬉しくて、他のサニークーペと差別化するために、自分で買って来た黒い花の形のシールを何枚かサイドボディに貼り付けたりしていました。結婚後も乗り続け、週末ごとに東名東京インター→横浜新道→湘南江の島/葉山→鎌倉と主人とよくドライブをしたものです。サニークーペ1000はクーラーもついてなく、その頃の横浜新道はずっと工事渋滞が続いていましたが、新婚で若い私たちは全くいやだなぁと思う気持ちはありませんでした。若いって不思議ですよね~。

クルマの運転と思い出

8/1976 ~ 7/1980

1976年8月から主人の海外駐在でテキサス州ヒューストンに4年間在住しましたが、このころのアメリカの車の大きさにはびっくりさせられました。主人が前任者の方から譲り受けたGM Delta 88は後ろに悠々4人乗れるほどのスペースがあり、左ハンドルの運転で左ドアのアームレストには腕を直角に上げて手を伸ばさないと腕を置けないくらい横幅が大きく、車体も長かったことを覚えています。

そんな大きな車は主人の通勤用と二人の遠出用として乗り、私は自分用の車として新車でオレンジ色のHonda Civic2,800ドルで購入して乗っていました。大きすぎるGMの車と比べて、日本人で且つ女性の私にとってとても乗りやすく満足していました。

アメリカ生活での車の運転に関して、覚えていることがいくつかあります。まずは、主人は私が手のかからない人だと思ったのか、運転免許試験場に連れて行ってくれる気配がないまま入国後3カ月が過ぎそうだったので、自分でHonda Civicを運転して国際免許証からアメリカの免許証への書き換えに行きました。勿論実技にも難なく合格しました。このように駐在員の妻が一人で車を運転して免許証を取りに行くと言うケースは、前例が全くありませんでした。

そして、テキサス州の州都オースティンの大金持ちのお家の夜会に招待され、声楽家のお友達と12日で「日本の夕べ」筝曲演奏旅行に行った時や、ケネディ宇宙センター、草原で開催された「ジャパン・フェスティバル」でお琴の演奏と書道の実演をするために車を運転して行ったことが印象に残っています。このように自分から積極的にアメリカ生活を満喫することが出来たのも、車の運転が大好きで好奇心と行動力があったからだと思います。

そんなHonda Civicは、ある日、片側3車線の道路の中央分離帯で左折のため停止していたら、右から走って来た車に座席の前をぶつけられてしまいました。その件ではひと悶着あり、裁判をすることになりました。結果的に裁判には勝ち、日本に帰国する時に、4年間乗った車だったにも関わらず購入時と同じ2,800ドルで売却することが出来ました。何とラッキーなことだったことでしょう。そのことのみならず、証言台に立った私の英語で裁判に勝った経験が印象に残り、その後のキャリア形成の自信にもなりました。

8/1980 ~ 8/2004

帰国後は夫婦だけの生活でセダンは必要ないと思い、スポーツカーの日産フェアレディZTバールーフ(黒)に乗っていました。主人が海外出張のために成田へ行くときの送り迎えのたびに、やっぱりスポーツカーだと思いドライブを楽しんでいました。

フェアレディZでの何と言っても一番の思い出は、姪と姪のお友達の男の子と一緒に行った89日の車+大型二輪の北海道ツーリング旅行です。北海道の大自然に初めて接し、日本の情景やそこに住む人々に想いを馳せることが出来ました。大洗からフェリーで苫小牧に行き日高(ハイセイコー・オグリキャップと会う)→襟裳岬→釧路湿原→納沙布岬→知床→トマムでラフティングといった具合で、最高の体験が出来ました。

8/2004 ~ 現在

次にトヨタのソアラからレクサスに名称変更になる前の最後のソアラ リミテッド・エディションを購入しました。フェアレディZがフルモデルチェンジをしてしまい、ボディが好みではなくなったせいで、国産車で乗りたいと思う車はソアラ以外ありませんでした。そのエレガントな車体と色合いが気に入りましたが、納車の時にびっくりしたのが、排気量が3,000ccだと思っていたのに、4,300ccだったことです!車は排気量によって税金が変わってくるのですが、87,900円に跳ね上がってしまいました(笑)

しかし、4,300ccの威力はものすごく、特に別荘に行く途中の小仏トンネルを一気に登って行く時の馬力の凄さたるや、飛行機のエンジンのようでした!これだけでもソアラに乗る価値があったと大満足でした。しかし年齢と共にスピードは全く出さず安全運転になったため、その排気量を存分に活かすことはあまりなくなってしまいました(笑)

2008年には両親を乗せて往復2,300キロの56日の「両親の故郷めぐり」(東京→京都→広島→周防大島→津山→舞鶴→京都→東京)を強行しました。今思うと一人の運転で一日400キロはきつかったですね。そのために帰りの舞鶴では良性突発性頭位めまい症になり救急車で元海軍病院に担ぎ込まれてしまいました。先生からは1週間の入院で様子を見ましょうと言われましたが、3日後には会社に出勤しなくてはと思い、無理やり翌日退院し京都で1泊後運転して東京に戻りました。58歳の時になんと無謀なことをしたことでしょう。

まとめ

振り返ってみると人生において車が果たした役割はとても大きかったと思います。「人生思い出作り」というのは間違いないですね。車の維持費はかかりますが、それ以上のお金では買えないものを得られたと思います。これからは技術が進んで自分で運転しなくて済む自動運転の時代もやって来ます。私が20歳で社会に出た時に思った「車に乗れば世界が広がるかも」と思ったようなことは、今後あらゆる分野の技術が進んで行くので、更に世界が広がるのではと信じています。