日常

本当のやさしさとは?

2023-03-13

本当のやさしさとは?

本当のやさしさとはいったいどのようなものでしょうか?私は自分自身の経験や人との繋がりから、このことについて考えさせられることが時々あります。15年以上も前から毎週両親のところに通い、もろもろの身の回りのことを手伝い、ホームに移っても認知症になっても最後まで通い続けることが出来たのですが、その様子を傍で見ていた主人は「お前は本当にやさしいよ。誰にでも出来ることではない」と私を褒めてくれました。その労いの言葉は本当に嬉しかったのですが、自分としてはやさしさからくる行動だと思ったことがなかったので、なんともむず痒い気持ちになりました。

今回はこの出来事を良いきっかけとして、私自身が普段からやさしさをどのように捉えているか、そしてどのように考え行動してきたかを踏まえながら、本当のやさしさとは何かについて考えてみたいと思います。

お役に立てればと利他のこころで

私が誰かと接するときの基本的なスタンスは「お役に立てればと利他の心で接する」というものです。現在活動しているメンタリングを行うにあたってとても重要な心構えですが、実はメンタリングと出会う前からこの考え方は私のモットーとも言うべきものでした。目に見える形でのリターンがあろうがなかろうが、相手がハッピーになれば自分もハッピーになれるという考え方です。私にとっては、こうした利他的で相手に配慮したコミュニケーションがやさしさの根本にあるものかもしれません。

行動でのみ伝わるやさしさ

次に私がやさしさで思い浮かべることと言えば「行動」です。やさしさは「以心伝心」のように気持ちを持っているだけでは伝わらないので、「行動」が重要なのではないかと思います。両親の役に立つことは一体何だろうと考えた時に、毎週実家に行くということが何よりも両親のためになると思い、それを習慣化しました。そしてこの習慣を続けることが出来たのは、時間的にも、金銭的にも、そして体力の面でも余裕があったからこそだと思いますが、その余裕を生み出すことが出来たのも、他ならぬ「行動」ではないかと思います。健康に気をつけながらしっかりと仕事をし、実家に通う時間を捻出するために家事の調整をするという「行動」があったからこそだと。と言っても家事は主人の全面的なバックアップがあったからこそ、両親のために「行動」することが出来たのです。

誰かにやさしくありたいと思った時に、気持ちだけになっていないか、しっかり「行動」が伴っているかを省みるのは良いことではないでしょうか。

きちんと断ることもやさしさ

人にやさしくありたいと思うあまりにあれこれ頼まれごとを引き受けてしまい、自分のキャパシティを超えてしまった結果、頼まれごとも本来の自分自身の仕事も中途半端になってしまったというような話はよく聞きます。

私にも何とか時間をやり繰りすれば出来るからと思って頼まれた仕事を引き受けたところ、自分の仕事にかけられる時間が少なくなり、最後にはそれがストレスになってしまったといういやな経験がありました。頼まれたことを何でも引き受けるのは一見やさしい態度のように見えますが、結果的に誰も幸せになっていないのであれば、それはやはりやさしさとは呼べないのではないかと思います。自分がやりたくない/やれないと思うことはきちんと断ることもやさしさなのではないかと思います。

まとめ

最近妹が「自分に対して上から目線じゃなくなって来て、話を聴いてくれるようになったので、自分も色々と話す気になってきて良かった」と誠実に打ち明けてくれました。決して意図的にそうしていたわけではありませんが、きっと昔の私は仕事が忙しく時間的な余裕もなかったので、妹にはそのように接してしまっていたのだと思います。この歳になり、色々と余裕が持てるようになった今、ようやく真の信頼関係が築かれたと感じさせてくれました。姉として長女として施しを与える側、妹がそれを受ける側のように思っていて、それが無意識に態度に出てしまっていたのが、ようやく対等な立場になり、私の言葉と行動が「本当のやさしさ」として妹に伝わったのだと感じました。以前の私もやさしい行動をしたいと思っていたことは間違いありませんが、本当の意味でのやさしさが伴ってはいなかったのでしょうね。皆さんもこんな経験はありませんか?是非意識してより良い関係を築いて行きましょう。