日常

金婚式を迎えるにあたって想うこと

2022-10-03

金婚式を迎えるにあたって想うこと

私と主人は、今年の107日で結婚生活50年の金婚式を迎えます。これまでも私たち夫婦のライフスタイルや、3時間で結婚を決めた理由などのように、ブログを通して夫婦になったいきさつなどを開示して来ましたが、金婚式を迎えるにあたって、これまでのことを振り返るには良い機会だと思い、年代ごとに印象的だったことを書き残してみることにしました。主人は帰国子女第1号の商社マン、私は外資系企業に勤務し、子供が授からなかった分常に夫婦で向き合い切磋琢磨して高め合い、色々な困難を乗り越えて来ました。その軌跡をご一読頂ければと思います。

結婚からヒューストン転勤まで

1972年10月に結婚しました。その年は札幌オリンピックや浅間山荘事件など忘れられない出来事がありました。私の母は「25歳までに結婚できなければ、留学でもして家から出て行って頂戴。近所に恥ずかしいから」と言うような人だったのでどちらかと言えば私の結婚を望んでいましたが、さすがに3時間で結婚を決めたと言う娘の私に度肝を抜かれたようで、最初は結婚には反対のようでした。しかし主人が113日に実家に挨拶に来た途端、手のひらを返したように結婚に賛成をしてくれました。理系の家族に文系の商社マンの主人が洗練されたお婿さんのように見えたのでしょうか、両親はとても主人のことが大好きになったようでした。

実家の2階を1LDKに改造してもらって新婚生活は両親と同居という形でスタートしました。この頃主人は仕事が忙しく、長期出張や夜の接待・麻雀などでほとんど家にいる時間がありませんでした。また自分のことを積極的に話す性格ではないため、当時私は主人が何を考えているのかさっぱりわかりませんでした。1973年のエルヴィスのAloha From Hawaiiの衛星放送を、主人に目もくれずテレビの前に正座して見入っていた私を見て、主人は「自分をほったらかしてなんだ!」と驚きを隠せなかったということを、最近になって言っていましたが、そんな風に主人が思っていたなんて当時の私は全く感じられませんでした(笑)

ヒューストン(テキサス州)での4年間

1976年8月からヒューストンでの生活が始まりました。日本ではロッキード事件が起きていた頃、主人のヒューストン着任から3カ月遅れで私がヒューストンに到着しました。私が元々外資系企業で秘書として働き、独立独歩で生きているような人間だったため、普通の駐在員の奥様方とは違って、あまり手間がかからない女性だと主人には思われていたと思います。その証拠に、車の免許は国際免許証で自分一人で運転して取りに行ったし、駐在中の4年間に2人だけでレストランで食事をしたのは、私が到着した日にハワードジョンソンというファミレスに行った1回限りでした(笑)私も別にレストランで食事をすることに対して価値を置いていなかったので、特に不満もありませんでした。

それよりも大事なことは、遂にエルヴィスのコンサートに行けると思っていた矢先、ヒューストン駐在1年後の19778月にエルヴィスが突然亡くなってしまったことです。愕然として悲しんでいる私を慰めるためかどうかわかりませんが、主人は一緒に色々と思い出作りをしてくれました。エルヴィスが映画を撮影したと思われるアカプルコ、長くショーを行っていたラスベガスのインターナショナルホテルの会場、ポールアンカやエンゲルベルトフンパーディンクのショー、トム・ジョーンズがヒューストンに来た時のライブ、カルガリーやサンディエゴでゴルフ、テキサス横断旅行やニューオリンズなど、色々なところに一緒に行ってくれました。

この思い出作りについては、またの機会に改めて書き綴りたいと思います。

2回の主人の単身赴任

1980年にヒューストンの駐在から帰国しましたが、主人は1985年からロサンジェルス駐在で5年、1996年からジャカルタに3年それぞれ単身赴任をしましたが、私に仕事を続けた方が良いと主人の方から単身赴任をすると言ってくれました。その頃の世の中はまだまだ妻の仕事のために夫が単身赴任するなんてあり得ませんでしたが、ロサンジェルスの駐在の時には半年に1回、私がロサンジェルスを訪れていましたし、単身赴任中に1度、主人の上司のご夫妻と私と主人とでハワイで落ち合い、ゴルフ三昧をしたこともありました。

単身赴任生活も最初は自由で楽しいですが、長くなると色々な意味で飽きてくるのではないかと思っていたのですが、主人は3回目のジャカルタの単身赴任が一番楽しかったそうです。やはりアジアの日本と友好関係がある国で運転手やメイドとか生活も楽だったのだと思います。

主人に襲い掛かった病気

これまでを客観的に振り返ると幸せな人生に見えますが、ここからは夫婦にとって試練の期間になります。主人は2000年に帰国し、2001年に早期退職を決めたのですが、その矢先の2002年に病気が発覚しました。胃潰瘍かと思って知人の紹介の大学病院で診察してもらったところ即入院となり、すい臓がんの疑いがあるとのこと。すぐに手術をすることになったのですが、手術をするのだったら世界一の先生に執刀してもらいたいと、念のためセカンドオピニオンを求めて東大病院で診てもらったところ、自己免疫性膵炎と診断されました。その頃では新しい病気とのことで、大学病院でそのままの勢いで手術をしなくて本当に良かったと思いました。大学病院を自主退院し、それから東大病院でステロイドを服用する入院生活が3カ月くらい続きました。丁度日韓ワールドカップのころです。

次に病気が主人に襲いかかったのはその10年後でした。自己免疫性膵炎のため10年間ステロイドを服用していたのですが、担当医から一度ステロイドを止めてみましょうと言われ、止めて1年後の定期健診で色々と調べたら、何と胃癌が発覚し、しかもステージ4と言われてしまいました。さすがにこれはショックが大きかったのですが、主人も私もへこたれてはいられないと前向きになり、担当医に「即悪いところを手術で取ってください!」とお願いしました。その結果、手術は成功しました。

ここでも夫婦の価値観が似通っていたので、即手術+抗がん剤治療と言う方向性が決まり、腹をくくって一緒になって癌と戦うのだという気力も出来たのだと思います。ステージ4だと言われても諦めずに手術で悪い所を全部取り除いて癌に立ち向かうという強い気持を主人が見せてくれたこともあり、私は全くおろおろすることもなく、運を天に任せてやれるだけの事はやるという強い気持ちでした。手術が成功し、しばらくして主人が元気になった頃に、主治医の先生が「元気になられたから言いますが、実は生存率は2%でした」と仰った時には、先生の温かい配慮に頭が下がりました。手術直後に言われていたら、その時点で心が折れてしまい、あれほど果敢に癌に立ち向かうことが出来なかったでしょうし、今頃主人は生きていなかったと思います。

まとめ

胃を全摘するという大手術をしてから今年で10年目ですが、この5年間は過去に自己免疫性膵炎と胃癌を主人が患っていたということを忘れてしまうくらい主人は元気に過ごしていました。しかし最近では、後期高齢者になり段々と年相応の感じになって来ました。夫婦はお互いに50年一緒に影響し合って来ると、主人にとっては今の私がある意味主人の成果物であり、私にとっては今の主人が私の成果物だと思っています。そういう意味では私の方が主人から得たものの方が多い気がしますが、主人は私のお陰で2回も命拾いをしたし、私の絶大なる安定感に感謝していると言っています。これからの人生も主人が常日頃から言っている「自分の幸せは妻が生き生きと毎日楽しそうに生きているのを傍で見ていること」を心に留めて、主人と切磋琢磨して行きたいと思います。