思い出

幼いころの思い出 – 北九州/大阪編

2022-12-19

幼いころの思い出 – 北九州/大阪編

先週はアンディ・ウォーホル展に行ったついでに、枚方市に居る従兄夫婦の家に泊まって母の想い出や北九州での生活を思い出しながら、深夜までしみじみと話し込んでしまいました。翌日には本来の目的である、生前私を可愛がってくれた叔父叔母のお墓参りも出来て、非常に充実した旅行になりました。叔父叔母との思い出はまた別の機会にブログにするとして、今回は従兄弟夫婦との会話で思い出した小中高校時代の思い出を書き残しておきたいと思います。

小学校4年生 – 1959年

1947年3月父はお見合いをして母と結婚し、石炭で栄えていた北九州の日本炭鉱で働いていました。その頃は1坑から5坑まで石炭を掘る入り口があり、父はそれぞれの坑で管理課長をしていてとても転勤が多く、それに合わせて私も小学校を2回転校しました。父がPTA会長をした朳(えぶり)小学校に転校をしたのは4年生の時でした。

当時、転校生などよそ者に対するいじめなどがしばしばあったのですが、私は不当なことに対して立ち向かって行くような女の子(長女)でした。朳小学校に転校してすぐに2-3人の男の子から「顔が四角で色が白くてお豆腐みたい」と茶化されたりしましたが、怯むことなくほうきを振りかざして運動場を追いかけ回したことを覚えています。

また私が住んでいた地域は、晴れた日には釜山が見えるくらいの距離にあったせいか、朝鮮(今の韓国)から泳いで密入国してきた人たちが「朝鮮人部落」を作って生活していました。その部落出身の同級生に対するいじめが頻繁に起こっていたのですが、正義感に燃えて活発な私はいじめをする同級生に立ち向かって行っていました。

母は、兄を福岡学芸大学(現在は教育大学)付属小倉中学校に入れた後、私のこともカトリック系名門校の明治学園に入れたいと思ったようで、兄と同様に家庭教師を付けて勉強させましたが、最後になって「もし受験に失敗したらご近所に恥ずかしいから受験させない」と、地元の公立の折尾中学に進学させました。この辺りは見栄っ張りな母らしいエピソードです。

中学生のころ – 1961/1964

先のブログエルヴィス 私の推しの原点にも書きましたが、中学時代の一番の思い出は英語を勉強しようと決意したことではありますが、それとは別に一つとても印象に残っている出来事があります。それは当時の八幡製鉄所のプールに泳ぎに行った時のことです。中学に入り水泳部に入った私はその日もプールで背泳の練習をしていたのですが、急にそこにいた大人から「君、今の年は何歳?」と聞かれたのです。なんのことかわからず「13歳です」と答えたところ、その人から「5年若ければオリンピック選手に育ててあげたのに残念!」と言われました。後に聞いたところによると、その人はその頃のオリンピック水泳選手の田中聡子さんを育てた名コーチだったのです。このことを思い出す度に「小学生のころにこのプールに泳ぎに来ていたら、オリンピック選手の夢もあったかも」と思いますが、やはりエルヴィスに会えた時のことを夢見て英語の勉強をしようと決心したからこそ、その後の私の人生、そして幸せな今があるのだと思います。

高校生のころ – 1965/1968

受験勉強に一生懸命だったという記憶はありませんが、高校は折尾にある進学校だった東筑高校に進みました。高倉健さん、野球の仰木元監督などを輩出した文武両道の高校として今でも有名な高校です。私も野球部が福岡大会のベスト4に進出した時に、その頃の平和台球場に応援に行ったことを覚えています。その時は結局甲子園出場が叶いませんでしたが

東筑高校で1年学んだ後、父の転勤のため大阪に行くことになり、大阪市立桜ノ宮高校に空きがあるということで、2年生から編入しました。桜ノ宮高校はもともと女子高だったそうですが、スポーツに力を入れており、高校野球や水泳などは全国レベルで、元阪神の矢野監督は桜ノ宮高校の出身です。北九州から来たとはいえ東筑高校で1年学んだ私は、2年生の1学期には2年生の半分までの勉強をすでに終えていたため、「何と遅れた程度の低い高校だろう」と周囲を馬鹿にする少し嫌な生徒でした。特に英語の先生にあえてややこしい質問をしたりして先生が困るのを見て面白がり、本来の勉強を一生懸命やりませんでした。今となればあの英語の先生には謝りたい気持ちでいっぱいです。

そして、3年生の3学期にまたしても父が転勤になり、東京に行くことになりましたが、私はお友達の家の2階に下宿させてもらうことになりました。そこではオールナイトニッポンを聴きながら、その頃流行っていたモンキーズの『Daydream believer』 を口ずさみながら受験勉強をしていましたが、今思うと真剣みがそれほどなかったのでしょうか、案の定大学受験に失敗してしまいました。

母から「女の子なのだから浪人するのではなく、どこでも良いから今から入れる短大に行きなさい」と言われその通りにしたのですが、当初は学歴に対して大きな劣等感を抱いてしまうことになりました。その後持ち前の負けず嫌いを発揮して「4年制の人にはまけないぞ」とがむしゃらに英語を勉強し自分で道を切り開いて行くことが出来たので、当初抱いた劣等感も、結果としてはその後の人生に多大なるプラスの影響をもたらしてくれたと思います。

まとめ

女の子なのだからという理由で私は浪人をさせてもらえませんでしたが、大学受験を失敗したことによって、主人とのご縁(ブログ3時間で結婚を決めた理由)があり、その後の幸せな人生、そして今に繋がっていると思います。「人生思い出作り」と思ってこれからもどんどん行動して、振り返ってみるとよい思い出ばかりと思えるように、日々心に余裕を持って思い出作りに励みたいと思います。